105歳現役医師・Dr日野原が死去




100歳すぎても現役医師 日野原重明さん死去
7月18日朝、呼吸不全のため亡くなりました。
105歳でした。 聖路加看護大学学長、
聖路加国際病院院長など聖路加のトップを歴任。

「延命望まず」家族語る最期の日々
日野原重明さんの次男の直明さん(69)は
「ことしの3月に検査で入院した際に肺炎が見つかりましたが、本人の希望で自宅で療養していました。しばらくはトーストや目玉焼きなどを食べていましたが、10日ほど前からは流動食になりました。おとといまでは呼びかけに返事がありましたが、きのうからはかすかにうなずくくらいで反応が鈍くなり、きょう明け方、静かに眠るように息を引き取りました。延命措置は本人が望んでおらず、全く行いませんでした」と話しました。


今日の、 日野原重明さん死去の訃報に接し、
心よりお悔やみ申しあげます。


「生涯現役」として著作や講演など幅広く
活動してきた聖路加国際病院名誉院長の
日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが、
18日午前6時33分、呼吸不全で死去した。
105歳だった。通夜・お別れの会は関係者で行う。
葬儀は29日午後1時から
東京都港区南青山2の33の20の
東京都青山葬儀所で。(NHKニュース)

   1911年、母の実家の山口県で生まれた。父は牧師。自身も7歳で受洗したクリスチャン。関西学院から旧制三高を経て京都大学医学部に進むが、在学中に結核になり長期の療養生活を強いられる。

医者になったばかりの頃、初めて受け持った16歳の紡績工の少女の死が、
医師としての原点になった。
母子2人だけの貧しい家庭で、結核性腹膜炎が悪化して入院していたが、
母は入院費や生活費を稼ぐ必要があり、付き添いができない。
面会は2週間に一度ぐらい。病状が悪化して少女は死を悟り、
日野原さんに向かって合掌する。
「先生、母には心配をかけ続けて、申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」。
直後に容体が急変した。
あの時、「看護婦さん、注射、注射」と
救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話をきいてあげること
こそ、最期の時間を大切にすることではなかったか・・・。
その思いがのちの、ホスピスづくり、終末期医療重視につながった。




日航機よど号に乗り合わせた。
 70年3月には、出張中に日航機よど号に乗り合わせて
国内初のハイジャック事件に遭遇。
赤軍派の人質になり、韓国・金浦空港で解放された。
このとき59歳。「残る人生は神様から与えられたもの」と考え、
「恩返し」「ボランティア活動」を心がけるようになったという。
95年の地下鉄サリン事件では、近くの地下鉄築地駅などから
運び込まれた多数の被害者を聖路加病院で引き受け、
早期治療に尽力した。
大規模災害の発生時にも対応できる病院として、前々から施設を拡充していたことが実った。

「戦争のない状態が最高の公衆衛生」
 戦争体験者として「二度と戦争を起こしてはならない」
「戦争のない状態が最高の公衆衛生」がモットー。
護憲派として「これほどしっかりとつくられた憲法は
世の中のどこにもありません」と語り、
現憲法の良さや平和の尊さも訴えていた。

   医療の分野では様々な制度改革に粘り強く取り組んで
成果を上げた功労者だった。
「成人病」から「生活習慣病」への名称変更には約30年、
臨床研修の必修化には約20年かかったという。
しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」
「15年以上のキャリアを持った看護師と学校出たての医師と比べた場合、
どちらが人を救う力があるか明白」と語り、医師不足への対応策として、
能力と意欲がある看護師にさらに高度の教育を施し、医師業務の一部を
分担してもらう新制度づくりを、熱心に訴え続けていた。
文献から、一部、抜粋しています。


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