第三十二話:厚木、相模原地区をの営業を担当

 

 
北島は、入社、三年めに入り、大学病院一つと県立病院四件、
市立病院五件、中小病院六件、開業医十件と合計二十六件を
担当する事になったのである。
 最初に、MS大学病院から話を始めよう。
 この病院は、ライバルメーカーの攻勢が強く我が社は常に劣勢に、
立たされていた。そこで、とにかく我が社に好意的な先生づくりを
めざして行動していった。
 最初、テニスの上手な木下先生とテニス仲間の吉崎助教授、
 石田講師が、週一回程度、テニスの試合をしている事を突き止め、
仲間入りをめざした。
 そして木下先生と吉崎助教授を核に攻略の糸口が見えてきた。
 それに医局長、講師、助教授で教授でパソコンに興味を
持つ先生を捜した。
 意外な事に岩下教授と宇都宮講師が興味をもっている事がわかった。
 特に宇都宮講師は米国の学会で米国人の友人が多く最先端の情報を
もっていた。
 宇都宮講師は、北島がパソコンをやっているのに驚いて、
いろんな情報をくれたのである。特にDBⅡ(データベースⅡ)の
デモソフトを見せてくれて、その概略を教えてくれた。
 それから、北島のデータベースとのつきあいが始まった。
 そしてMS大学病院に、医療情報センターが開設され、宇都宮講師が、
そこのスタッフ達と、つながりがあり、紹介してくれたのであった。
 それが更に、パソコンの知識を深める上で非常に役立ったのであった。
 その他、我が社はスポーツ医学に関連している関係で医療用の
学習の為の十六ミリ映画を作成していた。
 スポーツ医学の日本の黎明期、MS大学は、先進的なスポーツ医学を
実践していた。その勉強のために、定期的に、パラメディカル
(医療関連従事者)スポーツコーチ、の勉強会を実施していたのである。
 その責任者が、尼崎助教授であった。北島は、その勉強会時の食事の
差し入れをしていたのであった。
 持ち帰り寿司が、お好みであり、両手に持っていくのだが、
重くて大変であった。
 MS大学はスポーツに科学的トレーニングを取り入れ、競技スポーツに、
医学を包括的に、取り入れた最初の施設だったのである。
 スポーツ選手とスポーツ障害のリハビリとか練習直後のアイシングの
具体的な方法を研究していた。

 1980年に全日本選抜体重別選手権で山下泰裕選手が、
決勝で遠藤純男選手の「蟹挟み」という技で、下肢(腓骨)を
骨折してMS大学病院に入院した。
 その時に尼崎助教授が北島に、お前柔道やってなと聞くので、
はいと、答えると、山下に会いたいかと、笑いながら言うので、
もちろんと言うと、何と、こっそり病室で、会わせてくれたのであった。
 そして、色紙にサインまで、しっかり、もらったのである。
 天にも昇る気持ちというのは、こういう気持ちを言うのだろうと、
思う位、舞い上がってしまった。


 山下泰裕さんは、謙虚で、やさしい、素晴らしい人格の持ち主であった。
 また、「九年間無敗二百三連勝」の柔道の神様である。
 この思い出は、もちろん一生忘れない。

 更に、この年に北島に。彼女ができたのである。
 彼女の父が、ある建築企業の社長で、まさに住む世界が違う同士で、
当初、先方では、かなりの反対があった様である。
 婚約時に仲人役の横浜の営業所長が本当に、結婚してもらえるのか
と言う程、難しかったのであった。
 しかし彼女の強い意志により、結婚できたのである。
 結婚式は、横浜中華街の中国料理で有名なホテル行ったのである。
 以前勤務していた千葉の工場長や関係者、彼女の会社、彼女の父の
関係の政治家など、数多く出席してもらい盛大に行われたのであった。

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