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Episode33:Dr. death of incompatible death1

  When there are many people, there is always a person who is compatible with someone who does not comply. The teacher with good compatibility for Kitajima was Matsushita Medical Director General. He was strong, but unlike his behavior, he was a very friendly heart owner. When Kitajima had a dark face, he asked me what he was doing wrong, I was scolded at the office, and she told me she was given to her. Sometimes it was a delicious thing to go, took us to the best restaurant in the hospital, took me to a delicious onion gratin soup for the first time in my life. On my way home, when I tried to pay money, I did not ask him to entertain me, I was young, you were a little young and my salary was low, so I bought them all. When you got a great career and you become great, you might be bought. Even at the time of a pinch, this doctor also taught important information briefly while laughing that you are trying to lose  with the rival trying hard. However, in the ye

第40話:新潟での歓迎会2

 二次会は、山田所長の行きつけのスナックあゆみ。  夜十時を過ぎ人通りも少ない裏通りに新潟には似つかわしくない 派手な店構えで一目でわかる店だった。  ママの名はかずみ。この界隈では、ちょっと有名なママ。  あら所長、前に言ってた、できる若手の方って、この方ですか 良い男ね、 営業さんは、もてなきゃね。  第一次審査合格とはしゃいでいた。  この夜は、かなり酔いが回って饒舌なママだった。  ママから歌ってと言われると、すぐ北島はマイクを取り、 お得意のスタンバイミーを歌った。  山田所長とママは曲に合わせて踊り出していた。 その有様はママがリードして酔った山田所長が彼女に抱きついて 踊っていると言った方が良いかもしれない。  曲が終わると今度は、お返しとばかりにママが踊りやすい、 コーヒールンバを歌った。北島が座ろうとした時アシスタント・ ママの ヒトミが、さっと北島の手を取って一緒に踊り出した。  二人のステップの上手さにスナックの店内が、しーんとなった。  会社の女子は、びっくりした様な目つきで眺めていた。  そして十二時頃に終了した。  帰り際に北島の手相を見たママが山田所長に北島には女難の相 がある から気をつけた方が良いとそっと、ささやいた。  当時の日本中はバブル景気のまっ最中。  当社も転勤手当が月給の三ヶ月分支給され引越費用は会社持ちで 更に転勤先の家賃補助も平社員でも六万円支給、北国には地区に より 十月から三月の半年間、五~十万円/月の暖房手当が出た。   加えて給与と年一回、十二月の通常のボーナス。  特に業績が良く会社の利益目標を超えた年は超過金額を全国の 営業所の実績配分し支給するという特別ボーナスが九月支給される と 言う恵まれた環境の時代だった。  単身赴任にもかかわらず、北島は毎日のりのきいたシャツで 颯爽と出張、営業活動を続けていくのだった。

Episode32:Become a sales representative in the central district of Kanagawa prefecture

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  Kitajima entered the third year in this company, was responsible for  a total of 26 one university hospitals, four prefectural hospitals, five municipal hospitals, six small and medium hospitals, and ten clinics. First let's start talking from MS University Hospital. In this hospital, our rival manufacturer's offensive was strong and  our company was always inferior.  So anyway, we acted to create a friendly teacher to our company. First, Dr. Kinoshita, a  tennis player and Associate Professor Yoshizaki and tennis fellow Dr. Yoshizaki and Ishida, found the game of tennis about once a week and aimed to join them. Then Dr. Kinoshita and Associate Professor Yoshizaki were at the  core and clues to the strategy came into sight. Also, I am a doctor general, a lecturer, an associate professor and  a professor and interested in personal computer  I searched for  a teacher to have. Surprisingly it turned out that Professor Iwashita and Utsunomiya instructor were

第39話:新潟での歓迎会

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 早速、歓迎会の席で北島は今後の活躍に期待して欲しいと 強気の挨拶をした。  少し酔いが回った山下君先輩が北島君、ここは都会みたいに甘くないぞ、  冬になれば良くわかるはずと意地悪そうな顔で語った。  彼は入社当時、出身地の関西の営業所を希望したが願い叶わず 新潟へ来た苦い思い出があったのだ。  彼自身が冬の日本海の厳しさは誰よりも実感していた。  例えば冬に佐渡へフェリーで渡り出張した時、日本海が荒れ佐渡で 一週間以上、足止めになったり、また新潟から佐渡へ長期間、 渡れない事が数回あった。  そんな辛い日々を何度も経験していた。都会で評判のエリート営業マン にライバル意識をむき出しにするのも無理からぬ事だった。  女子社員は、そんな北島君に興味津々。  一年先輩の鈴木先輩はクールに北島君、お手並み拝見しましょう。  ただ、ここはそんなに甘い所じゃないよと不敵な笑みを浮かべていた。  佐藤君は、いつもの低姿勢で先輩宜しくいいろいろ教えて下さいねと、 しおらしく、お辞儀をした。

第38話:新潟転勤と家探し2

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   翌日は、新潟営業所の山田所長と家族全員で面会する事にした。  そして借家の場所や北島の新潟での営業活動のあらましを聞いた。  山田所長から営業活動は四泊五日、つまり月曜日に出社し金曜日に 帰るという事になるだろうと聞かされた。  次に北島君の借家は営業所から車で十五分位で交通の便の良い所で 広さは3LDK以上の物件を捜してみるつもりだと 山田所長が言ってくれた。  その後、雑談して失礼した。 帰ってから、チェックアウトをしてホテル内の寿司屋へ 昼食を食べにいった。  やはり新潟の魚は評判通り旨い。  その後、新幹線で早めに全員で帰宅し、数日後、 再び家族で新潟へ入った。   その翌日、営業会議で北島が所員に紹介された。  北島の担当地区は長岡、十日町、六日町、津南と新潟県の 山間部と決まった。  会議の翌日、家族と合流して山田所長と 借家を見て回った。 良い物件があると不動産屋さんが言うので行くと 、そこは営業所から車で約十五分、海に近い国道沿いの 新築二階建て4Kだった。  家賃は駐車場込みで月6万円と関東では信じられない安さ。 もちろん奥さんも新築で4Kの広さに十分満足してくれた。 ただ奥さんは妊娠半年であり来月から出産に備えて実家へ戻る事なった。 そんな北島が、いろんな事件に巻き込まれるとは、つ ゆ知らず溌剌と新潟営業所へ赴任していった。 次に営業所のメンバーを紹介しておこう。 営業所の山田所長は、ゴルフがめっぽ上手な学術肌の営業マン。 所長、自ら大学や県内の大型取引先を担当して営業活動に励んでいた。 営業所の女子事務員は新潟出身の高卒二年目と四年目で男子社員の話や 人事異動の話題について昼休みに話していた。 営業社員は他に三人。それぞれ担当地区ごとに紹介していく。 まず上越方面が入社二年目の佐藤君。 下越・新発田方面が入社五年目の鈴木君。 新潟市内と佐渡担当が入社六年目の山下君。 それに北島が長岡、中越など山間部担当。 新潟営業所は山田所長を含め男性営業社員五人体制となった。

第37話:新潟転勤と家探し1

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 北島治が転勤先の新潟で仕事面やプライベートで巻き起こす様々な 事件を生々しく、書いていく事にしよう。  北島は結婚三年目で、二人の娘がいる。将来の幹部候補生として、  入社四年目に転勤の声がかかった。 赴任先は新潟営業所だった。  北島にとって生まれて初めての新潟市あった。  関東平野、大宮、高崎を抜け、だんだん山深くなり水上を 過ぎる頃には山に雪が見えた。  小説雪国で有名な清水トンネルを抜けると雪国という感じだった。  田畑も道も全部、雪だらけという印象が、ぴったりだった。  雪におおわれているのを見ると、軽い、息苦しさを感じた。  その後は、ずーっと同じ景色が続いた。  かなり時間が長く感じられたが突然、次は新潟駅の案内放送を聞いた。  北島と奥さん子供達と共に新幹線で新潟駅に降りた時なんとも言えない 湿っぽさと寒々しさがした。  市内中心部をタクシーで移動する事にした。 最初に万代橋が見え、信濃川の大きさに驚かされた。 続いて、新潟伊勢丹が見えた。  万代橋の渡った所にある今晩宿泊するホテルオークラ新潟に着いた。  身重の奥さんの事を考えて、部屋でゆっくりと休んでから ホテルのレストランへ行った。  気品があり清潔そうな所で料理も十分満足できた。  特に炊きたての、ご飯がうまい。  独特な形に切った、しゃけの焼き物も、すごくおいしかった。

第三十六話:リハビリ病院の仲間達2

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 神奈川リハビリ病院は、医者の紹介のみで一般診療をしていない 事もあり、仕事のしやすい病院だった。  特に、ちょっと変わり者の羽田医師とは馬が合い、 親しくしてもらい、仕事にも貢献していただいた。  また違う大学出身の向田医師とも非常に親しくしていただいた。  彼の情報は気むずかしく入り込みにくいとの事で我が社でも、 親しくしている者が一人もいないという難しい医師だった。   しかし北島の性格も、ちょっと変わっている所があるのか、 こういった個性的な性格の先生に好まれる傾向があるのかも知れない。  それらを生かして、業績も、以前の数倍に伸ばす事ができた。  仕事も好調で昨年の新人賞に続き今年は業績で全国表彰の栄誉に  輝いたのであった。 こんな人生で最も好調な時に意外な事が 起こるのが常である。 北島 も例外ではなかった。それは年末の新潟への転勤辞令。 これには納得いかず営業所長に何故ですかと抗議した。 すると君の実績が評価され欲しがる営業所が多くなったの、 だから栄誉だと思うべきだと反論された。 これは後でわかった事だが札幌営業所から強烈なオファー があった様であった。 しかし新婚早々、可愛そうだからと営業所長の判断で、 お誘いのあった中で、一番近い新潟にしてくれたそうだ。

 第三十五話:リハビリ病院の仲間達1

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 神奈川は、意外に知られていないが、医療、福祉にに対して、力を入れている住民に優しい県である。県立リハビリセンターは、当時実質的にリハビリ会のリーダー的な病院であった。全国から優秀な方々が来ていた。 県立リハビリセンターは、当時実質的にリハビリ会のリーダー的な病院であった。全国から優秀な方々が来ていた。   北島は担当、当初、医療関係の知識の幅を広げる為に、 ここの先生達の、部屋を訪ねたのであった。  学校の教室みたいな机の配置で、リハビリ部長が、 先生の机であり、その他は対面して前から役職順に 机が配置されていた。  そして毎日、闊達な議論や症例検討をしていた。   当時からリハビリを必要とする患者について担当医師とリハビリPT(理学療法士)OT(作業療法士)が、チームを組んで治療にあたるシステムを日本で最初に行っていたのであった。当時からリハビリを必要とする患者について担当医師とリハビリPT(理学療法士)OT(作業療法士)が、チームを組んで治療にあたるシステムを日本で最初に行っていたのであった。 そして我が社は、このリハビリについての学術映画を作成しており、ここのリハビリ室の,勉強会に活用していただくようになった。当時、リハビリの学術映画を企画して所有している会社は、ほとんどなく医療関係者に大変、重宝がられたのであり、当時、医薬品を発売していたのである。   その後、リハビリ部の忘年会、納涼ビールパーティ、 新年会など、いろんな行事に参加させていただいた。  ここには日本のリハビリ学会をひっぱっていこうと言う 気概と、多くの若手の情熱が、ひしひしと 感じられたのであった。  そして、ラグビーの名選手、大八木選手とは、 巨人の有名な選手の現場復帰のためのリハビリも、 行われていたのである。 若い人の交通外傷の後のリハビリにも積極的であった。 御巣鷹山・日航ジャンボ機墜落の時に奇跡的に 助かったスチュワーデス・落合由美さんのリハビリも、 ここで、長期に行われて社会復帰していったのであった。 

 第三十四話:馬が合う先生の壮絶死2

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   テニスで仲の良い木下先生が、北島に、そっと、 松下医局長には会うなと言うので、相当具合が悪い事を察した。  そして半年後、その学会は横浜で開催され大成功に終わった。  終了の翌週、松下医局長が突然、昏睡となり二日後、帰らぬ人となった。  後で聞いた話によると松下医局長は、うすうす、自分が癌に、 おかされているのを知っていた様 だ った。  医局全体で先生のカルテを全部すり替えて、わからない様にしていた。  面会謝絶後も、ひと目を盗んでは、松下医局長の病室をこっそりと たずねていた。最初は、冗談を言っていたのが、体調が悪い時は、 悪いが、そっとして、おいてくれと、言うようになった。 そのうちに、寝ている日が多くなり、やつれて、激やせしているのが 目につく様になりはじめた。  元々、大柄でがっちりした体型なので、その変貌ぶりは驚くほど だ った。   生前の松下医局長の 人柄がしのぶ、参列者が多く、 葬儀は、 盛大に 執り行われた もちろん葬儀には、北島は、参列させてもらった。 葬儀委員長の岩下教授が、 学会での医局長の奮闘ぶりを語り、 また残された妻子の事に、 ふれると、会場から、嗚咽と、 すすり泣きの声がしてきたのである。   残された若い奥さんと小学校に通う、お姉ちゃんと、弟の二人の 子供さんの姿が参列者の涙を、より一層、誘うのだった。  北島は、もう泣かずには、おれず周囲の目も気にせずに、 大声で泣いた。  この仕事を始めて、こんな気になった事は、今までにない経験。 この出来事、以降、医局全体の、北島と弊社に対する反応は、 非常によくなりライバルメーカーの担当者を交代させる程、実績が伸びた。

第三十三話:馬が合う先生の壮絶死1

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 多くの人がいると必ず、馬のあう人と、あわない人がいるのが常である。  北島にとって馬のあう先生は、松下医局長であった。  彼は、強面だが、その言動とは違い、非常にやさしい心の 持ち主であった。  北島が暗い顔をしていると、どうした元気ないじゃないか、 また、会社で、叱られたのか、彼女にふられたのかと 声をかけてくれたのである。  たまには旨いものでも食べに行こうと、病院内の最高のレストランに、 連れて行ってくれ、生まれて初めての、旨いオニオングラタンスープを、 ごちそうしてくれた。  帰り時に、金を払おうとすると、接待をしてくれと、頼んでないし、 お前はまだ若いし,給料も少ないから俺が出すと、 全部おごってくれたのであった。  お前が出世して偉くなったら、おごってもらうかもね といったのであった。  この医局長にはピンチの時にも、お前ライバルが頑張っていて 負けそう だぞと笑いながら重要情報を手短に教えてくれたりもしたのであった。  ただ、その数年後に、この松下医局長と悲しい別れが来るとは 夢にも思わない北島であった。  ある年、この医局が全国 ○○学会の幹事大学になった時の事である。  幹事大学であるMS大学では、松下医局長が幹事となって、実務全般を 取り仕切るのが、通例になっている。  松下医局長の顔色がわるくなって、入院する事になったのは、 その翌月の事であった。  体調が悪く、動くと、すぐ疲れてしまうのであった。  そこで医局のある階の特別病室に専用電話とつなぎ、学会の幹事として の役目を果たす事となった。  お見舞い行こうにも面会謝絶で行けなかった。  それでも人目を盗んで会いに行った時は笑いながら、お客さん、ここは 面会謝絶でっせ、こられたらあきまへんと精一杯、笑って言ったのである。  それを聞くと悲しく胸がつまる思いがして、こみ上げる涙を、 こらえるの必死な程、であった。

第三十二話:厚木、相模原地区をの営業を担当

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    北島は、入社、三年めに入り、大学病院一つと県立病院四件、 市立病院五件、 中小病院六件、開業医十件と合計二十六件を 担当する事になったのである。  最初に、MS大学病院から話を始めよう。  この病院は、ライバルメーカーの攻勢が強く我が社は常に劣勢に、 立たされていた。そこで、とにかく我が社に好意的な先生づくりを めざして行動していった。  最初、テニスの上手な木下先生とテニス仲間の吉崎助教授、  石田講師が、週一回程度、テニスの試合をしている事を突き止め、 仲間入りをめざした。  そして木下先生と吉崎助教授を核に攻略の糸口が見えてきた。  それに医局長、講師、助教授で教授でパソコンに興味を 持つ先生を 捜した。  意外な事に岩下教授と宇都宮講師が興味をもっている事がわかった。  特に宇都宮講師は米国の学会で米国人の友人が多く最先端の情報を もっていた。  宇都宮講師は、北島がパソコンをやっているのに驚いて、 いろんな情報をくれたのである。特にDB Ⅱ(データベースⅡ)の デモソフトを見せてくれて、その概略を教えてくれた。  それから、北島のデータベースとのつきあいが始まった。  そしてMS大学病院に、医療情報センターが開設され、宇都宮講師が、 そこのスタッフ達と、つながりがあり、紹介してくれたのであった。  それが更に、パソコンの知識を深める上で非常に役立ったのであった。  その他、我が社はスポーツ医学に関連している関係で医療用の 学習の為の十六ミリ映画を作成していた。  スポーツ医学の日本の黎明期、MS大学は、先進的なスポーツ医学を 実践していた。その勉強のために、定期的に、パラメディカル (医療関連従事者)スポーツコーチ、 の勉強会を実施していたのである。  その責任者が、尼崎助教授であった。北島は、その勉強会時の食事の 差し入れをしていたのであった。  持ち帰り寿司が、お好みであり、 両手に持っていくのだが、 重くて大変であった。  MS大学はスポーツに科学的トレーニングを取り入れ、競技スポーツに、 医学を包括的に、取り入れた最初の施設だったのである。  スポーツ選手とスポーツ障害のリハビリとか練習直後