樋口季一郎さんに、ついての情報1

樋口季一郎さんに、ついての情報1

みなさんは、東洋のシンドラーについては、テレビ局も
取り上げたし、「六千人のビザ」という映画にもなり、
有名になったので、御存知ですよね。

しかし、その彼よりも、一足早く、より多くの
ユダヤ人を救った男をご存知ですか? 
その人の名前は、樋口 季一郎(ひぐち きいちろう)

日本の陸軍軍人。1888年兵庫県、淡路島で生まれた。
1909年陸軍士官学校(21期)に進む一方で、
東京外語学校でロシア語を徹底的に学ぶ。
陸軍士官学校を優秀な成績で卒業、
陸軍大学校(30期)を経て、ロシア語が堪能
であることもあって、卒業後すぐ1919年に
ウラジオストクに赴任(シベリア出兵) 。
最終階級は陸軍中将。

オトポール事件
1937年12月26日、第1回極東ユダヤ人大会が
開かれた際、関東軍の認可の下、3日間の予定で
開催された同大会に、陸軍は「ユダヤ通」の
安江仙弘陸軍大佐をはじめ、ハルピン陸軍特務機関長を
務めていた樋口陸軍少将らを派遣した。この席で樋口は、
前年に日独防共協定を締結したばかりの同盟国である
ナチス・ドイツの反ユダヤ政策を、
「ユダヤ人追放の前に、彼らに土地を与えよ」と、
間接的に激しく批判する祝辞を行い、
列席したユダヤ人らの喝采を浴びた。

そうした状況下、翌1938年3月、ユダヤ人18名が
ナチスの迫害下から逃れるため、ソ連〜満州国の
国境沿いにある、シベリア鉄道・オトポール駅
(現在のザバイカリスク駅)まで逃げて来ていた。
しかし、亡命先である米国の上海租界に
到達するために通らなければならない満州国の
外交部が入国の許可を渋り、彼らは足止めされていた。

極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士
から相談を受けた樋口はその窮状を見かねて、
直属の部下であった河村愛三少佐らとともに
即日ユダヤ人への給食と衣類・燃料の配給、
そして要救護者への加療を実施、更には膠着状態に
あった出国の斡旋、満州国内への入植や
上海租界への移動の手配等を行った。

その後、ユダヤ人たちの間で「ヒグチ・ルート」
と呼ばれた。
この脱出路を頼る難民は増え続け、
上海まで、彼らを乗せる列車を手配した
東亜旅行社(現在の日本交通公社)の
記録によると、満州から入国したユダヤ人の数は、
1938年だけで245名だったものが、
1939年には551名、1940年には3,574名まで
増えている。
また、松井重松(当時、案内所主任)の回想録には
「週一回の列車が着くたび、20人、30人のユダヤ人が
押し掛け、4人の所員では手が回わらず、発券手配に
忙殺された」と記されている。
現実には累計でも五千人程度であった、


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