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6話:大正の恐慌時代に船を買う

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    安田亀吉がジェームズ加藤に橫浜商人で船を売ってくれそうな人はいないかと聞くと、しばらく考えて、浅野総一郎が多くの船を持っていると言い、ぼろ船でも良いから1隻、2~3千円出すから買う交渉してくれないかと言った。     わかった話をして乗ってきたら安田亀吉さんを浅野総一郎に会えるように手はずを整えると言ってくれた。数日後、ジェームズ加藤が安田亀吉の所へ来て、この 恐慌 で値段次第では2-3隻の船なら売っても良いと話したと連絡してきた。     3日後1910年12月12日に安田亀吉が正装してジェームズ加藤と一緒に浅野セメントへ乗り込んだ。挨拶をした後、浅野総一郎が安田亀吉の顔を見るなり、君、もしかして原善三郎の亀屋で働いていた番頭だろと言った。     すると、はい、その通りですと答えると、それなら話は早い、ところで今日は何しに来たと聞くので使っていない船があったら買いたいというと、この不況のさなか何故、船なんか買いたいのかと聞いたので 、 不況で 、 安く手に入れる機会だからと 答えた。   と 言う 事は、 生糸と同じ で、 暴落の時に 買いまくると言う事 かと笑った。いくら金を用意できるのかと聞いたので、逆に浅野に、いくらなら売ってくれますかと迫った。何隻欲しいのかと聞くので2 、 3隻と言うと何とかなる 。価格は、 1隻7千円と 告げた。   「それを聞き、 冗談じゃないですよ、景気の良い時ならいざ知らず、今の不況では高過ぎます 」 「 5千円なら買うと言うと手形は何日かと 聞かれた」 「 今、亀屋 を 辞めていますので手形は 、 使えませんので現金ですと 答えた」 「する と浅野の顔色が変わり現金かと、ほくそ笑んだのを見逃さなかった 」   「その替わり、 安田亀吉は、もちろん船員もつけて下さるんでしょうねと 聞いた」 「 大笑いして亀屋の番頭は 、 きつい商売する男だと聞いていたが厳しいなと 告げた」 「 わかった人助けだと思って、その条件を の もうと言った 」   「 その後、すぐに契約書を交わして3隻の船と航海士3人と3人の船乗りをつけてくれた 」 「 今年中に入金しろと浅野が言うと、きつい商売しても約束は絶対破りませんと啖呵を切っ た」 「そして、 固い握手を交わし、浅野セメントを後にした 」     このやりとりの一部始終を見ていたジェー

5話:生糸の活況相場の終わり

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    その年 、なぜ か 、 生糸相場も、もう終わりかなと感じて亀屋を退職し退職金も千円いただき亀屋を後にした。その時、18歳で気立ての良くて綺麗な同じ八王子出身の貧農の娘、内田衣子と仲良くなって亀屋を一緒に退職した。     退職当時、安田亀吉は約1万円 「現在の価値で、 5500万円 」 の大金持ちになっていて 、 橫浜の貸家を借りて2人で暮らすようになり商売を始め、タバコを 商売を始めて、 金物か ら、 書物、衣類、多くの製品を商う様になった。     その他に、生糸の商売をしている時に、知り合ったフランクリン 商事 のジェームズ加藤という日系人と親しくなり、ガム、チョコレート、ウイスキー、ブランデー、ワインの他、舶来のお菓子、雑貨も取り扱うようにな り 商売も繁盛した。     そうして3年後、安田亀吉50歳、衣子21歳で男の子を授かり1894年5月15日、安田勝一が生まれた。安田 商事 での儲けは借家、店の賃料と不自由なく食べられる程度で資産を増やすほどでもなかった。     それから 、 約2年後の1896年3月19日 、 次男、安田勝二が生まれ 、 4人家族になった。そして明治32 「 1899 」 年、後事を富太郎に託して72歳で世を去った。     亀屋 、 原 商事 の実質的二代目となった富太郎は、生糸売込業のほか、明治33 「 1900 」 年には絹物輸出業を兼営して、原 商事 を「原合名会社」に改組する。翌 、明治 34 「 1901年 」 には 、 生糸輸出業を始める。     そして明治35 「 1902年 」 9月には三井家が経営していた、富岡製糸場・名古屋製糸場・大島製糸場「栃木」・三重製糸場を引き継いだ。富太郎が製糸家として生きた20世紀前半は、日本製糸業にとって、波乱に満ちた時代であった。     アメリカ向け輸出の比重を高めつつ成長をとげた日本製糸業は、人造絹糸レーヨンの実用化にともない、もっとも低廉な原料糸供給先である洋服の裏地や織物の縦糸からしめだされる。こ れ を背景に1900~10年代には 、 在来の手工業によって生み出される座繰糸が輸出品として適合しなくな った。    そのため、 日本の生糸相場の活況も完全に終わりを告げた。1900年になり息子の安田勝一、勝二が読み書きできる頃には自宅によく遊びに来たジェームス加藤

4話:安田亀吉が亀屋で生糸商売を開始

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  4話:安田亀吉が亀屋で生糸商売を開始  その後、 亀屋の主人、原善三郎に安田亀吉の名前を覚えられ可愛がられる様になり2年が経 った。 1864年、したたかな原善三郎は安田亀吉の信州、上州、相州、甲斐の生糸生産農家に顔の利く所から、良い条件を出して大量一括購入を始めた。     安田亀吉も原善三郎に中間マージンをいただいた上に、安田亀吉の全財産・6百円を亀屋に投資して投資比率の分の利益をもらう様に交渉すると原善三郎が亀屋で働けと言って雇い入れてくれた。     その後、安田亀吉は持ち前の記憶力で商売する時に使う英会話を覚えて外国の商社の人達と交渉して有利な条件で商売する様になり原善三郎に重宝がられた。その後28歳の時1869年に生糸の値段が大暴落して、多くの生糸を扱う橫浜の店がつぶれていった。     その時、原善三郎が八王子 の 鑓水に帰るかと 、 安田亀吉に聞いた。 「 それに対して 、 いや生糸の価格の乱高下はつきものだから、原先生に出て行けと言われるまで、ここにいたいと話 した」 「する と 、 厳しい時期をどう切り 抜けて行ったら良いか 、よく見ておけと大きな声で言った 」    原善三郎は、生糸相場が過熱してきたと感じると、 生糸価格が下げ始めると 考えて、 積極的な売買を控えて手を出さないように していった。その後金と相場が下げ始め様子を見て、上げに転換したと感じると、静かに買い始めた。    原善三郎が、生糸を買い始めると他の商人も買い始めると知られると生糸市場が、上昇する。そして気がついた時には 、一気に買いに走るという、長い商売で培った鋭い勘で、 上手に生糸商売をしていた。     1871年に起こった、普仏戦争によるフランスによる生糸輸入停止での生糸価格暴落の時も 、 何とか 、 原善三郎は逃げ切った。10年後、28歳 「 1872年 」 の時 、 安田亀吉の資産が 、 数倍になった。     ある時、原善治郎が、それだけの資産を得たのだから。お屋敷を建てたり、店屋を出して商売しないのかと尋ねたところ、俺は小さい 時 から質素な生活に慣れていて、この店の離れの小さな部屋で充分だと言った。     その後、1873年頃に大隈重信が民部・大蔵卿に就任して、殖産興業として西洋諸国に対抗し、機械工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進し