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6月, 2021の投稿を表示しています

うわさを信じちゃいけないよ?!、コロナウイルスと注射と副作用

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 あるウイルスに一度感染すると、体内でそのウイルスに対する免疫ができることで再びかかりにくくなる。ワクチンとはこの人体のメカニズムを利用したもので、感染症の病原体「ウイルスや細菌」に対する免疫をつけたり強めたりして、個人の発症や重症化、社会での感染症の流行を予防する。 みなさん、ご存じの通り、ワクチンを打てば絶対にその感染症にかからなくなるわけではないが、発症率が下がり、また、感染した場合でも重症化を防ぐ効果が期待できる。 例えば日本では年間100人ほど破傷風にかかる人がいるが、そのほとんどは活動量が少なく、野外でケガをしにくいはずの60代以上だ。この世代は子どもの頃に破傷風のワクチンを打っていないことが原因と考えられている。 ファイザー社の新型コロナワクチンは従来の生ワクチンや不活化ワクチンとは違う「メッセンジャーRNAワクチン」と呼ばれるタイプだ。 新型コロナウイルスは表面にスパイクたんぱく質という突起がついていて、これが人の細胞に侵入するカギになっている。今回承認されたメッセンジャーRNAワクチンを接種すると、体内でこのスパイクたんぱく質に対する抗体が作られ、ウイルスが細胞の中に入れなくなる。 メッセンジャーRNAとは、細胞の中でアミノ酸からたんぱく質を組み立てるための設計図。ワクチンを接種すると、スパイクたんぱく質を作るメッセンジャーRNAが免疫細胞である「マクロファージ」に取り込まれ、スパイクたんぱく質に対する抗体が作られるというわけだ。生きたウイルスを体内に入れるわけではないので感染症の症状が起こる危険はないし、メッセンジャーRNAは1週間程度で自然に消えるのでヒトの遺伝子に影響を及ぼす可能性もなく、安全性は高いという。 新型コロナのワクチンは、これまで約1億5千万回接種された実績。約4万5千人が参加した治験によると、発症率が、95%低くなることが確認された。これは、発症率が、20分の1にまで抑えられた計算になる。この予防効果は、他の病気のワクチンと比べても高い。対象は、16歳以上で、3週間空けて、2回接種することになっている。  効果は確かでも、多くの人が、気にしているのは「副反応」だろう。岡部さんによると「どんなワクチンにも副反応はあり、平均して10万回に1回程度の割合で入院を要するような重篤な副反応が起こる」という。 ファイザー社の新型コロナワクチ

コロナワクチン接種で、わかった、日本の問題点2

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  我慢、ならんたい、その2、なんで、日本では、公明正大な情報がないのか?! 政府はなぜ外国製ワクチンをスピーディーに輸入できないのか? 1:政府の誰が、どの外国製薬企業のどう交渉をして、どんな契約を結んでいるのか、説明が、全くない。 2:日本での審査に役人の力が強く審査過程が不透明で、欧米に比べて信じられない位の長い時間が必要。 3:最初から政府が、日本でのワクチン許認可は、時間的に無理と、あきらめて外国企業にワクチンをお願いした。 *これには、以前の薬害エイズ事件の様な前例があり、二の舞を踏みたくないと言う本音も見られる。 4:やはり白人至上主義で、欧米から始まり、次ぎに、高い金をふんだくることができる日本という順番であることは、想像に難くない。 5:日本は、政治家、公務員が、自分が、無責任を取りたくない体制が伝統的に強い。 この負のシステムが、日本の一般庶民を不幸にするシステムなってる。 ご意見、お待ちしてます。

コロナワクチン接種で、わかった、日本の問題点1

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 我慢、ならんたい、その1、なんで、日本製のワクチンが出ないのか!  日本で、なぜ、コロナワクチン接種が遅いのか、その原因の1番目 日本は、医療水準が、世界トップクラスと言われるが、なぜ、良いワクチン候補を発売できないのか? 1:それは、明治以来、お役所仕事の延長で、許認可に、信じられないほどの時間が、かかるため。 2:厚生労働省の承認を取る間に、しっかりしている国に、美味しい所「利益」を全て持って行かれる。 *もちろん、日本独自の極めて治験を取りにくい体勢も関連しているが・・・ *ただし、 以前の薬害エイズ事件のような前例があり、二の舞を踏みたくないと言う本音もあるが・・・ *新薬開発にかかる多くの時間と費用についての解説  日本では、新薬1つの開発には、平均13年以上の年月が、かかり、300億円以上もの費用。新薬開発は、創薬、前臨床試験、臨床試験、審査を経て、薬事承認される。    その後、やっと薬価収載を経て販売へ。販売して実用化された後は、患者への投与のモニタリングが行われる。新薬開発は、多くの化合物の候補をふるいで分けてる作業。    だから医薬品候補物質の種類をどれだけ多く持っているかで、医薬品メーカーの開発力が、決まる。一般に、創薬段階で、医薬品候補となる数万もの物質から、前臨床試験までに 300品以下に 絞られる。    その後、最終的に臨床試験に入るのは5から6つ程度である。その候補物質をフェーズ1相~3相の臨床試験を通じて、有効性や副作用の有無を試されるのだ。    まずフェーズ1は、少人数の健康な人に投与して、副作用となる毒性の有無や程度を調べる。ここで特に問題がなければ、フェーズ2へ、少人数の患者に投与して、治療効果や安全性を確認する。    それに合わせ、薬効の様子や適応症の検討、用量の設定なども行われる。これに合格すると、最後のフェーズ2に進み、多数の患者に投与し有効性や安全性について確認される。    確認にあたって、医薬品候補と色、形などは同じだが薬効のない偽薬「プラセボ」を使い、薬を投与された患者の心理的効果が有効性に影響しないよう慎重に試験をする。   このフェーズ3は、数千人規模の患者を対象とする本格的な臨床試験となることが一般的で、この段階の研究開発費の約半分が費やされる場合が多い。    もしフェーズ3を終了した後、試験で合

8話:欧州航路、1ケ月の船旅1

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 アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。この出来事を知った 三井物産の本居康智が、これで間違いなくドイツはじめとする同盟国側の敗戦が間違いなくなったと話した。     今日の話合いを終えた。また、時期が来たらパスポートの手配をお願いしますと言って、安田亀吉が本居康智とジュームス加藤を見送った。既に、この頃には、安田 商事 で 、 長男の勝一と次男の勝二が横浜商業学校を卒業し た。    その後、 商売を手伝ってくれ、取扱高も増えて、取扱品目、生糸や輸入雑貨品、食料品、生活雑貨、用品と手広いなり、当然取扱高も増え、収入も数倍に増えていた。そして、ヨーロッパへの移住についても、興味津々で、新天地での商売、生活に夢を膨らませている様だった。     1918年に入り、益々、連合国側の優勢の情報が伝わり安田亀吉は、1918年中には第一次大戦が終結するだろうと予測していた。その後1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参加した連合軍によって撃破された 。    そ の情報 が、 入って安田亀吉は 、 戦争終結の日が近づいたと感じて、1918年8月10日、三井物産の本居康智さんにパスポートの手配をお願いした。3ヶ月後の11月11日に本居康智がパスポートを安田家の4冊のパスポートを持って来てくれた。     約束した手数料、35円。翌週に、本居康智さんがやってきて1918年11月11日が第一次世界大戦の終戦記念日となったとの情報が入ったと言ったので橫浜からマルセイユの船便・中等室・切符の大人手配をお願いした。     費用は700円で中等は4人で1室だと教えてくれ、パンフレットを渡してくれた。出港の日は1918年12月11日でマルセイユ到着予定が、1919年1月11日と知らされた。     やがて出発の日、1918年12月11日を迎え、安田亀吉、勝一、勝二は最近、新調した背広を着込んで、母の衣子は洋服を着て、横浜港へ出かけた。乗船する船は日本郵船の諏訪丸、1万2千トン、速力16ノットと高性能で ある。     諏訪丸の公室の装飾は、英国ウエアリング・アンド・ギロー社によりクラシカルな様式だった。乗船前に厳しい、手荷物検査とパスポート検査、本人確認を受けて、許可が下りた順番に乗船していった。     その後、横浜港

7話:船不足で大儲けと軍国主義で日本を離れて欧州へ

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 1914 年 6 月 28 日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者 であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエボに訪問中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたサラエボ事件 。  この事件をきっかけとしてオーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけた。 独仏国境は 、 両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに 、もと づきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて 、 南下してフランスに進軍した。  しかし 、 その結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。 こうして 、 第 1 次世界大戦がヨーロッパで起こった。   一方、安田家では 1914年に次男の安田勝二が 、 横浜商業学校を卒業した。その2年前に長男の安田勝一が既に横浜商業学校を卒業し、 既に 安田 商事 を手伝っていた。     1914年9月以降、船を貸して欲しいという依頼が安田亀吉の元に、どんどん入ってくる様になり安い料金では断り続けた。その思惑通り、1915年に、以前1万tの船が3千円だったのが1915年の秋に1万円になり3隻とも貸し出した。     そして貸し船の需要が多く、休む暇なく、船を貸し出し、笑いが止まらないほど儲かった。その後1916年にチャーター料金が3万、5万、6万円と上昇して来た。その後、1917年になり、一隻8万円でチャータを受けた。     1917年、船のチャーター料金が最高値になったのを確認して、三隻の船を欲しい会社に売却し 、 最終的に50万円 「現在価値で 16 . 25億円 」 の儲けを手に入れた。その後、安田亀吉は日本で軍国主義が台頭して嫌な世の中になって来たと日本の将来に不安を感じた。     そこでジェームズ加藤に、日本を出て安全なところへ移住したいと言い、どこが良いかと聞くと、米国は駄目、ヨーロッパでは 、 スイスは 、 永世中立国を標榜しているが、寒いし住環境が良くなく、食糧事情も良くない、スペインは内乱があり、平和とは言えない。     消去法で 、 行くと 、 ポルトガルなんか良いのではないかと言い、暑さ寒さもひどくなく、日本との長い歴史もあり、日本 と 同じで 、 海に囲まれ、スイスよりも食糧事情も