第2話:ジフテリア事件





1957年7月、4歳の夏に、近くの幼稚園に入園し、
8ヶ月後、近所でジフテリアが、流行りだした。
 私は、生まれつき丈夫でなかった、事もあって、
運悪く、そのジフテリアに、感染したのであった。
 5-6人の友達も感染したのだが、1週間程度で、回復した。
 私は、ひどくなるばかりで、近くのM共済病院の隔離病棟に入院するはめとなった。
 入院したが、症状は改善せずに、偽膜症状
(喉に膜ができ呼吸が出来なくなる。)で、母親が、
24時間付き添い看護する事になった。
 毎晩、偽膜が喉を塞ぐと,息ができないので、寝ずに、
膜を指で、破ってもらったのであった。


数週間も、それが続いたので,直接喉に、穴を、あけて、
小さなプラスティック製のラッパ状のものを取り付け、呼吸できる
ようにしてもらった。
 数ヶ月しても、症状が悪くなりばかり、食事も取れ
なくて、ついには、心臓停止が数回、起こってしまった。
 そのたびに、医師が、蘇生処置で、心臓を、動かすようにした。
 そして、ぎりぎりの状態まで、悪化していたのが、
少しづつ、回復してきたのであった。
 半年を過ぎる頃から、食事を取れるようになり、
顔色も赤みがさしてきて、良くなってきた。
 当時、ジフテリアが流行していたが、重症化した場合、
ほとんど、死亡していたのが現実であった。
 その中で、これだけの重症例で回復したという例は、
珍しかったようで、先生達が、学会で発表した。
 そのため、毎日、やたらに、尿とか、血液とか、
痰とかを採取された。

 1年の入院で、奇跡的に、命を取り留める
ことが出来たのは、神様のおかげかもしれない。

 その年の3月、退院後は、自宅療養の日々であった。
 元気になる頃は、小学校入学の時期になっていた。
 小学校は、自宅から徒歩30分くらいで、通えた。
 貧乏な暮らしは、変わらなかったが、何故か、
毎朝、牛乳が配達されていた。
 私の身体を気遣って、特別に、飲ませて
くれていたのである。
 ただ、両親には、申し訳ないが、好きになれなく、
よく残して、飲み残しを飲んでもらっていた。
 体育の授業は、参加できず、遠くから、眺めているか、
保健室にいるかの、どちらかであった。
 医者から当分、学校での運動は禁止と、
いわれていたのである。
 そのため、ぶくぶく太って、肥満児体型に
なっていった。
 住んでいる、改造していた納屋が、手狭であり、
他の、借家に住むことなった。
 今度の借家は、8kmくらい離れた、海沿いの、
漁師町であった。
 この頃になって、父が、早めに帰ってきた時には、
近くの防波堤で、釣りをして、あじ、たこ、いか、
しゃこ、さばと、いろんな魚が、
食卓にのぼるようになった。
 特に、あじは、便利なさなかで、大きいものは、
さしみ、塩焼き、小あじ揚げ物にして、食べたものだ。
 いか、たこ、しゃこが、取れた日は、父が、
上機嫌であったのが思い出される。

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