5話:生糸の活況相場の終わり
その年、なぜか、生糸相場も、もう終わりかなと感じて亀屋を退職し退職金も千円いただき亀屋を後にした。その時、18歳で気立ての良くて綺麗な同じ八王子出身の貧農の娘、内田衣子と仲良くなって亀屋を一緒に退職した。
退職当時、安田亀吉は約1万円「現在の価値で、5500万円」の大金持ちになっていて、橫浜の貸家を借りて2人で暮らすようになり商売を始め、タバコを商売を始めて、金物から、書物、衣類、多くの製品を商う様になった。
その他に、生糸の商売をしている時に、知り合ったフランクリン商事のジェームズ加藤という日系人と親しくなり、ガム、チョコレート、ウイスキー、ブランデー、ワインの他、舶来のお菓子、雑貨も取り扱うようになり商売も繁盛した。
そうして3年後、安田亀吉50歳、衣子21歳で男の子を授かり1894年5月15日、安田勝一が生まれた。安田商事での儲けは借家、店の賃料と不自由なく食べられる程度で資産を増やすほどでもなかった。
それから、約2年後の1896年3月19日、次男、安田勝二が生まれ、4人家族になった。そして明治32「1899」年、後事を富太郎に託して72歳で世を去った。
亀屋、原商事の実質的二代目となった富太郎は、生糸売込業のほか、明治33「1900」年には絹物輸出業を兼営して、原商事を「原合名会社」に改組する。翌、明治34「1901年」には、生糸輸出業を始める。
そして明治35「1902年」9月には三井家が経営していた、富岡製糸場・名古屋製糸場・大島製糸場「栃木」・三重製糸場を引き継いだ。富太郎が製糸家として生きた20世紀前半は、日本製糸業にとって、波乱に満ちた時代であった。
アメリカ向け輸出の比重を高めつつ成長をとげた日本製糸業は、人造絹糸レーヨンの実用化にともない、もっとも低廉な原料糸供給先である洋服の裏地や織物の縦糸からしめだされる。これを背景に1900~10年代には、在来の手工業によって生み出される座繰糸が輸出品として適合しなくなった。
そのため、日本の生糸相場の活況も完全に終わりを告げた。1900年になり息子の安田勝一、勝二が読み書きできる頃には自宅によく遊びに来たジェームス加藤に、お願いして、子供たちに簡単な英会話を教えてもらい英語の歌も覚えさせた。
一方、日本の経済の歴史について振り返ってみると、明治維新後の1880年代後半に、日本で第一次産業革命が起こり、鉄道業と紡績業が中心の好景気が巻き起こり、企業勃興で株式会社の設立が流行った。
日清戦争の時、どれ位の賠償金が取れたかと言うと、二億両と遼東半島還付金の三千万両、合わせて二億三千万両「約三億六千万円」で、これは、その頃の全国の会社の時価総額以上の金額。
それを使用して前から、やりたいと思っていた金本位制を導入したり造船奨励法、航海奨励法によって造船業、航海業を推進していき、多くの銀行が設立され、積極的に融資が行われた。例えば、各地の農工銀行が地域銀行として設立された。
その他、日本勧業銀行や日本興行銀行などの政府系金融機関もつくられた。そこ銀行が、民衆に融資する事で日本の産業は、育ち。発展していった。しかし日露戦争では、全く賠償金がとれなかった。 そのため、国内の景気が落ち込んだ。
日清戦争の賠償金を使って融資した会社が、つぶれたり、貸したお金の回収が、困難になったりして1907年に米国から始まった恐慌が日本でも始まった。日本では日露戦争の後だったので戦後恐慌と呼ばれた。
一方、退職後の安田家では1909年、安田亀吉の長男、勝一が元町中学2年、と次男の勝二が、元町小学校の5年生になって、いたずら盛りで喧嘩して生傷が絶えなかった。それでもジェームズ加藤に英語の手ほどきを受け、簡単な英会話をマスターした。
算数は、親譲りで2人とも、計算が速く得意だった。勝二は絵が上手で、山下公園やホテルニューグランドの絵を描いては、小学校で張り出されているようだった。翌、1910年頃、フランクリン商事のジェームズ加藤が、安田亀吉を呼んだ。
そして、安田亀吉に、ヨーロッパのドイツとイギリスが対立し、何かあれば、戦争になるかもと世界情勢を教えてくれた。すると亀吉が、戦争になれば物資がいる。もし不足する物と言ったら何かと聞くとジェームズ加藤が、戦艦、船が、足らなくなると答え安田亀吉も確かにと相槌を打った。
コメント