第九話:長期アルバイトの話
東芝関連の工場で、働いた時間が最も長かった。日当は二千円。
当時は公害の一番ひどい時期で、毎日、午前用と午後用の
ガーゼマスクを与えられていたが、半日で、真っ黒になり、
イオウ臭がして、気持ち悪いものであった。
昼食は、食堂で、大盛りの定食二百五十円、天ぷらうどんが百八十円。
毎日、空腹で、大盛りの定食+うどんか、そばの連続で、
空腹を満たしていた。
今振り返ると、東芝系で、工場の環境や、労働衛生は、比較的、
良かった様に思える。
仕事を終えると、必ずお風呂に入り家に帰るのが、きまりであった。
家までは電車バスでを乗り継ぎ、九十分程。
当時、工事現場での、手伝いで、仕事を終えた後に、横浜駅近くの
野毛の寿司屋で、親方に、寿司を食べさせてもらった事があった。
その時の親方は、寿司を食ったら、さっさと帰っていいぞと、言った。
親方が、少し楽しんで帰るからと、意味深な、笑いを浮かべ、
店の二階に、女と上がっていくのであった。
いわゆる、ちょんの間って、やつでした。
その他には工事現場の手伝いが不定期で、日当が三千円。
一番、高給の良いアルバイトは、横浜港での荷受けだった。
一回運んで、千円。
しかし、荷物は五十~八十キロあり、担げる人は、
そんなにいなかったのである。
ただ給料が良いとの噂が、立ち、担ぐ人も多く集まる様になり一日、
最高五回位までしか担げない様に、なっていった。
それでも、私にとって、日当五千円が最高額のアルバイトであった。
当時、一番、高い学生アルバイトは米軍基地での米兵の死体あらいで
日当一万円であった。
だた、実際に経験した先輩に聞くとホルマリン臭が、きつく死体を
見て一週間は食欲が落ちたとの事で二度としたくないと言っていた。
そのアルバイトと家庭教師で年間十万円以上は、稼いぐ様になり、
オーディオにのめりんだのである。
時間がある時は良く、秋葉原へ行きショールームでステレオサウンドを
聞いて憧れが強くなっていた。
最初、ターンテーブル(レコード盤をのせて聞く装置)FMチューナー
、プリメインアンプ、スピーカーを、買いそろえていった。
そのメカマニアが、高専のコンピュター・プログラムの時間、
実際にプログラムを組んで大型コンピューターを操作する授業で、
その憧れが、コンピューターに迄、向っていったのであった。
そして数年後に、日本で最初のマイコンを買う事に
つながっていくのである。
DENON DP-5000
高専に入って時間ある時には秋葉原に出かける様になった。
そこでは、最新のオーディオ機器を見たり触れたりできたのであった。
また最新の情報も入ってくるのであった。
特に、楽しかったのは、試聴室で気に入った曲を聴く事であった。
当時、好きだったのが、ヨーロッパのサウンド・トラック。
特に、レイモン・ルフェーブル、ポールモーリア、
パーシーフェイス、オーケストラものが大好きであった。
YAMAHA NS-1000M
Onkyo
DS251
S170
当時、有名な国産スピーカーはヤマハ、オンキョー、デンオン、三菱、
サンスイであった。
海外では米国では、JBL、欧州では、タンノイなどが有名であった。
その中でも、私は、JBLの大ファンであった。
その後、バックロードフォーンという、特殊な形状の高効率、高能率の
スピーカーが流行りだして、私も、作成キットを買い作ってみた。
しかし私の部屋が6畳と言う事もあり、
そのメリットを十分に生かす事ができなかったのである。
カクヨム :成り上がり者の生涯・成長期(小説)
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