4話:安田亀吉が亀屋で生糸商売を開始

 4話:安田亀吉が亀屋で生糸商売を開始

 その後、亀屋の主人、原善三郎に安田亀吉の名前を覚えられ可愛がられる様になり2年が経った。1864年、したたかな原善三郎は安田亀吉の信州、上州、相州、甲斐の生糸生産農家に顔の利く所から、良い条件を出して大量一括購入を始めた。

 

 安田亀吉も原善三郎に中間マージンをいただいた上に、安田亀吉の全財産・6百円を亀屋に投資して投資比率の分の利益をもらう様に交渉すると原善三郎が亀屋で働けと言って雇い入れてくれた。

 

 その後、安田亀吉は持ち前の記憶力で商売する時に使う英会話を覚えて外国の商社の人達と交渉して有利な条件で商売する様になり原善三郎に重宝がられた。その後28歳の時1869年に生糸の値段が大暴落して、多くの生糸を扱う橫浜の店がつぶれていった。

 


 その時、原善三郎が八王子鑓水に帰るかと安田亀吉に聞いた。

それに対していや生糸の価格の乱高下はつきものだから、原先生に出て行けと言われるまで、ここにいたいと話した」

「する厳しい時期をどう切り抜けて行ったら良いか、よく見ておけと大きな声で言った

 

 原善三郎は、生糸相場が過熱してきたと感じると、生糸価格が下げ始めると考えて、積極的な売買を控えて手を出さないようにしていった。その後金と相場が下げ始め様子を見て、上げに転換したと感じると、静かに買い始めた。

 

 原善三郎が、生糸を買い始めると他の商人も買い始めると知られると生糸市場が、上昇する。そして気がついた時には、一気に買いに走るという、長い商売で培った鋭い勘で、上手に生糸商売をしていた。

 

 1871年に起こった、普仏戦争によるフランスによる生糸輸入停止での生糸価格暴落の時も何とか原善三郎は逃げ切った。10年後、28歳1872年の時安田亀吉の資産が数倍になった。

 

 ある時、原善治郎が、それだけの資産を得たのだから。お屋敷を建てたり、店屋を出して商売しないのかと尋ねたところ、俺は小さいから質素な生活に慣れていて、この店の離れの小さな部屋で充分だと言った。

 

 その後、1873年頃に大隈重信が民部・大蔵卿に就任して、殖産興業として西洋諸国に対抗し、機械工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進した諸政策を打ち出し、官営富岡製糸場を建てた。

 

 これらを見て原善三郎は、再び生糸の価格が上がると見込んで日本中から生糸を買って買って買いまくった。その後、明治9年1876年製糸商売にとって衝撃的な年となった。

 

 原善三郎は莫大な資産を既に持っていて、安いに一気に買う行動をとっていると7月の新糸相場は1梱9貫250円が月末には300円、9月には600円の高値を示したので、すぐに外国商人に売、ほとんど9月中にり切った。

 

 すると10月に入り、生糸価格が、下り始めた。すると原は、一気に金に物言わせて買いまくった。12月には再び7月の高値に戻り外国商人売りつけた。10年強で、橫浜商人の中でも最大の資産家となった。

 

 しかし1880年に大蔵卿が大隈重信から松方正義になって今までと真逆の方針が行われ始めた。徹底した緊縮財政、たばこ税や酒税を増税、軍事費以外の政府予算の縮小、官営事業の払下げ。この結果、緊縮財政により、物価が下がり始めた。

 

 この様子を見て、原善三郎は生糸相場が再び下がると考え、生糸の売買をしなくなり、様子を見るようにした。その読み通り、1884年に世界的な不景気も相まって生糸価格の大暴落が起きた。しかしその影響を、ほとんど受けずにすんだ。

 

 原善三郎は生糸相場の値段の変動の激しさを熟知して安い時に潤沢な資本を利用して一括買いをして価格上昇した時に売る方法で着実に利益を積み上げた。その生糸相場の乱高下で橫浜生糸商人も多くが店が倒産し人数が減った。

 

 その中で原善三郎は生糸相場が上がり始めると見ると一気に売買をして下げ始めると、ぴたっと商売を小さくする方法で着実に稼いで、資産を増やしていった。その年、1887年に安田亀吉は47歳であったが、以前通りに稼いだ資産を全部、亀屋に投資して資産総額が9千円となった。

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