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第一話:プチャーチンと川路と日露交渉

 日本の開国は、最初1846年に、米国の東インド艦隊の司令長官をしていたビットルが浦賀に来て、開国をせまったが、その時、幕府は断わった。その後、1853年、米国東インド艦隊の司令長官ペリーがアメリカ大統領国書を持参して浦賀港に入港して、日本の開国を要求した。


 この時、幕府は正式に国書を受理した。同じ年の10月15日、プチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って下田に来航。ディアナ号は3本マスト、2千トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦であった。




 日米和親条約の締結を聞き、再び、国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航した。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲「つつい・まさのり」と勘定奉行・川路聖謨「かわじ・としあきら」が、応接係として急遽下田に派遣される。


 ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日に開かれた。第2回目の日露交渉を約束して別れた、次の日、1854年11月4目午前10時頃、突然、大地震とともに大津波が下田湾を襲った。


  地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残らなかった。

 

 また、波が下田富士の中腹まで駆け上がり大きな船舶が遠くまで押し流されたと言われている。この津波により下田の町は壊滅状態の大惨事。湾内が空になるほど潮のひいた後、停泊していたディアナ号も津波に巻き込まれ大変な状態になったとも伝えられている。

       

 マストは折れ、船体は酷く損傷し、浸水も激しく、甲板の大砲が転倒して下敷きになり、死亡した船員も出る惨状でした。このような災害の中、ロシア側は、その日の夕方、津波見舞いに副官ポシェートと医師を同行させ、傷病者の手当ての協力を申し出た。

 

 この厚意に応接係・村垣範正「むらがき・のりまさ」はいたく感服したと伝えられている。津波後、3日目の1854年11月7日から、プチャーチンは、副官ポシェートに長楽寺で事務折衝を始めさせる。11月13、14両日、下田の寺で全権との交渉を行い、それから条約草案の事務折衝を続けた。

 

 11月14日から下田の寺で全権との交渉が続き、安政元年12月21日、日露和親条約9ヶ条と同付録4ヶ条がロシア使節プチャーチンと日本側全権・筒井政憲、川路聖謨、下田奉行・伊沢政義とのあいだで締結される。この条約の第2条では、両国の国境が「今より後、日本国と露西亜国との境、エトロフ島とウルップ島との間にあるべし」

 

『中略』カラフト島に至りては、日本国とロシア国の間で、界を分たず是迄仕来り通りたるべし。」と初めて定められました。1981年、日本政府は閣議了解をもって国境条項を含むこの条約が、平和的に調印された。

 

 この日を「2月7日 北方領土の日」とすることを定めた。「安政元年2月21日、この日、西暦で1855年2月7日が、今でも、北方領土の日である」

 

 ロシア使節の提督プチャーチンの乗った新鋭船ディアナ号に乗っては嘉永6年「1853年」、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航しますが交渉は実らず、一旦、日本を離れる。ペリー艦隊が、安政元年「1854年」6月に帰国して4カ月後の10月15日、プチャーチンはディアナ号で下田に来航した。

 

 ディアナ号は3本マスト、2千トン、52門の大砲と488名の乗組員が乗るロシアの最新鋭の戦艦。日米和親条約の締結を聞き、再び国境画定を含む日露和親条約の締結を目的として開国の町下田に来航した。1週間ほど遅れて、日本側全権大目付・筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨が、応接係として急遽下田に派遣される。

 

 その後、ロシア側との事前交渉がもたれた後に第1回日露交渉が11月3日福泉寺にて開催。第2回目の日露交渉を約束して別れた次の日、安政元年「1854年」11月4目午前10時頃、突然大地震と共に大津波が下田湾を襲った。

 

 地震は2回、津波は幾度となく押し寄せ、町内の家屋はほとんど流失倒壊し、溺死者等122人、戸数875戸のうち841戸が流失全壊、30戸が半壊、無事の家はわずかに4戸しか残らなかった。

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