3話:安田亀吉の丁稚奉公と中居屋生糸事件

 江戸時代末期の天保から明治時代、1830年~1860年に、信州、上州、会津、甲州、津久井、秩父などから、生糸を仕入れて、日本人の生糸売込問屋に運んで販売する八王子近くに住む鑓水商人の先駆けとして大島正四郎が活躍し始めていた。

  

 大島正四郎は文化的教養を身につけ、算術を巧みであり、それだけではなく、その度胸の良さと、計算の速さと商売の押しの強さで、鑓水の狼と呼ばれていて、短期間で財を蓄えた。

 

 その大島屋に、秩父の貧農の男の子、安田亀吉10歳が1854年に口減らしのために奉公に出されて大島屋で掃除、荷物運びなど下働きをして食べさせてもらっていた。

 

 亀吉は腕白で力持ちで、身体も大きく、大島屋でも重宝され、毎日仕事に精を出していた。たまの休みの日に八王子の柔道の道場で通い始め、暴漢にあっても、投げ飛ばせる術を身につけて、一層逞しくなった。

 

 そして、少しずつ、大島大島正四郎に商売の仕方の手ほどきを受け、商売の駆け引き、押すべき所、引くべき所、商売の落とし所を、大島正四郎の姿を見ながら、しっかり学んだ。

 

 12歳から江戸や橫浜に番頭が生糸を売りに行くと時についていく様になり生糸商売の面白さにすっかり魅せられた。しかし当時は物騒な世の中で、生糸を売って帰る山道で金銭目当ての強盗の被害にあうこともあった。

 

 そんなある日、1849年10月11日、いつもの様に鑓水から橫浜へ馬の背に、生糸をのせて、番頭見習いの梅吉18歳と手代の八十吉16歳が生糸を橫浜に売りに行き、帰って来るはずが10月13日になっても帰ってこない。


 たまりかねた大島屋の大島正四郎が翌、10月14日に店の男たち5人で鑓水峠の山中を探しに行った。険しい山道の一画で、落ち葉が、散らかっている後が見つかり、もしやと思い、一緒に来た男が、草むらを探してみると、落ち葉が異常に盛り上がっている所があった。

  

 それを不思議に思い、どけてみると梅吉と八十吉が腹を刺されて死んでいる姿が見つかり懐の銭入れがなくなっており強盗に殺された様だ。その後、大島屋の主人、大島正四郎が地元の親分に頼んで腕の立つ、お侍さんに手間賃を出して橫浜までの商いの道中、同行してもらう契約を結んだ。

 

 その後、大島正四郎が安田亀吉の商売上手なのを見抜いて1857年、13歳から橫浜へ生糸を運ぶ時に、一緒に行く様に申し渡した。毎週のように橫浜へ出て生糸を売り1860年16歳で実際に売買をさせてみると高値で売れた。

 

 そうして、1862年、橫浜にできたばかりの原善三郎の亀屋にも売りに行く様になった。安田亀吉も18歳になり、いっぱしの生糸の販売員として価格交渉ができ、亀屋に出入りした。

 

 しかし、横浜生糸商人の中には最初は大成功しても、最後に不遇の最期を遂げるものも生糸相場の激しい値動きで蓄えた富をはき出して倒産する者いた。例えば、橫浜の生糸商人の先駆けと言われる中居屋重兵衛は、以前から諸藩と関係を持っていた。

 

 中居屋を開店直後から会津藩・上田藩などの藩領で生産された生糸を輸出した。安政6年、1859年、日米修好通商条約締結に伴い横浜が開港されたこ事から幕府に強制的に移転させられる。

 

 しかし中居屋はこの機会に外国商人との日本で最高の品質と言われる上州生糸の貿易を半ば独占し、莫大な利益を上げた。横浜本町四丁目に建設した店は銅あかがね御殿と呼ばれるほど拡大した。敷地面積は1200坪で、安政6年、1859年6月に開店した。

 

 幕府から営業停止を受けたのは、店の屋根を銅葺きにした中居屋の店の普請があまりに華美であったことが、幕府の怒りに触れた。また幕府の御用商人であった三井家の資料では中居屋には奥州・上州・甲州・信州・越後の糸商人が集まった。

 

 そして、中居屋重兵衛が、当時、幕府から違法とされていた名義を借りして外国商館に生糸を販売しており、その件が幕府に知れて営業停止命令の前々月には中居屋の支配人が入牢させられた。

 

 だが、彼は水戸藩のシンパであり、時の大老・井伊直弼「いいなおすけ」とは敵対関係にあった。そして文久元年。1861年8月2日死去。幕府の生糸輸出制限令違反で捕縛された後に獄死したとも、麻疹により病死したともされる。


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