7話:船不足で大儲けと軍国主義で日本を離れて欧州へ
1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクが、サラエボに訪問中、ボスニア系セルビア人の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されたサラエボ事件。
この事件をきっかけとしてオーストリア・ハンガリー帝国はセルビア王国に最後通牒を突きつけた。独仏国境は、両側とも要塞化されていたため、ドイツはシュリーフェン・プランに、もとづきベルギーとルクセンブルクに侵攻、続いて、南下してフランスに進軍した。
しかし、その結果ドイツがベルギーの中立を侵害したため、8月4日にはイギリスがドイツに宣戦布告した。こうして、第1次世界大戦がヨーロッパで起こった。
一方、安田家では1914年に次男の安田勝二が、横浜商業学校を卒業した。その2年前に長男の安田勝一が既に横浜商業学校を卒業し、既に安田商事を手伝っていた。
1914年9月以降、船を貸して欲しいという依頼が安田亀吉の元に、どんどん入ってくる様になり安い料金では断り続けた。その思惑通り、1915年に、以前1万tの船が3千円だったのが1915年の秋に1万円になり3隻とも貸し出した。
そして貸し船の需要が多く、休む暇なく、船を貸し出し、笑いが止まらないほど儲かった。その後1916年にチャーター料金が3万、5万、6万円と上昇して来た。その後、1917年になり、一隻8万円でチャータを受けた。
1917年、船のチャーター料金が最高値になったのを確認して、三隻の船を欲しい会社に売却し、最終的に50万円「現在価値で16.25億円」の儲けを手に入れた。その後、安田亀吉は日本で軍国主義が台頭して嫌な世の中になって来たと日本の将来に不安を感じた。
そこでジェームズ加藤に、日本を出て安全なところへ移住したいと言い、どこが良いかと聞くと、米国は駄目、ヨーロッパでは、スイスは、永世中立国を標榜しているが、寒いし住環境が良くなく、食糧事情も良くない、スペインは内乱があり、平和とは言えない。
消去法で、行くと、ポルトガルなんか良いのではないかと言い、暑さ寒さもひどくなく、日本との長い歴史もあり、日本と同じで、海に囲まれ、スイスよりも食糧事情も良いかも知れないと言った。
もし政情不安や紛争が起これば、スイスに逃げると言う手もあると話してくれた。そしてフランクリン商事へ行って社員に聞いたりして、よく調べてくることを約束してくれた。
1週間後、ジェームズが、やってきて、やはり、以前話した、1番にポルトガル、2番がスイスで、もしヨーロッパ、で商売を続けて、生活するとしたらフランス南部しかないと教えてくれた。
大金はスイス銀行に預けて、スイスかポルトガルで暮らすか商売しながら生活するならフランス南部か、と言い、大金は円で持っているのではなく金に買えた方が安全だと話してくれた。
もし、安田亀吉さんが、本気で移住したいなら、三井物産の本居康智という友人がいるから彼に渡航の手続きや、面倒な事も頼むと良いと話し、彼との面談の手続きを取ろうかと言ってくれたので、お願いした。
翌週1917年6月16日に中華街の高級店の個室でジェームズが安田亀吉を三井物産の本居康智に紹介した。挨拶をした後、本居康智が移住希望という事は聞き、その理由もジェームズから聞きました。
しかし、個人的な情報を答えていただきますが、良いですねと聞くので安田亀吉は、了解した。まず、お金はいくらあるか、40万円、家族の人数と年齢、家族4人、息子2人「23歳と21歳」、奥さん「42歳」。
仕事は小さな商事を経営、借金はなし、持ち家もなし。これで、内情は、わかりましたと本居康智が言った。いつ頃、日本を離れたいと聞くので、安田亀吉は第一次大戦の終了後に出かけたいと答えた。
パスポートは手続きとって手に入るまで3ケ月で、手続きの経費は35円ですと言ったので了解した。また、資金は全て三井銀行に預け入れて下さいといわれた。そしてヨーロッパへ到着後、持ち金のうち大部分は英ポンドに替えた方が安全でしょうと言われた。
ヨーロッパに行けば、英ポンドからゴールド「金」が、安い時に購入して財産を保全するようにした方が良いと教えてくれた。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。
その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器や物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ウィルソン大統領は第一次大戦に連合国側に立って、参戦を決意、1917年4月に議会の同意を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。
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